心を傷つけるのも、いやすのも「心」だけ 

こんばんは

昼前に起きて携帯のニュース一覧を見たら、オウム真理教がらみでまた逃亡してた人が逮捕されたと。

もちろん歴史上例がないテロ事件で、亡くなった方々はもちろん、未だに後遺症で苦しんでいる人もいるほどですから、そこは被害者を無視して、逃亡し続けたこと、それはもちろん被害者からも罰からもですが、に対する責任はとっていただくことになるでしょう。たとえその先に極刑が待っているとしても。

そういう意味ではオウム真理教の事件というのはまだ歴史になりきれていない、現在進行形の事件なのだな、と思います。

教祖は長引く裁判を待たずに、頭の中を現実から切り離してしまったようですから、なおさらあの事件を知る人がしっかりとけじめをつけなくてはなあ、と思います。


95年のあの事件のことは、物忘れの多い私にしては結構覚えています。
その年、阪神淡路大震災があったせいもあるかもしれません。


被害者でなければ分らない感情もあるでしょうし、正直当事者でない者がどれだけ声を上げて正論を言ってもどれほどの意味があるのかもわかりません。

被害者に「かわいそう」ということも、加害者に「けしからん」と言うことも、言えば言うほど浅く感じてきてしまう。

そうかと思うと斜に構えて「無関心」を決め込むほどの善し悪しは別として「度胸」もない。

ただ一つ言えることは、人の心を傷つけるのも、またその傷ついた心をいやすのも、結局は「別の誰かの心」でしかないということだろうか。

地下鉄サリン事件はその上に「宗教」という「人間の心」のやわらかい部分(時にそれは一番頑なな部分だけれども)を支配する要件が軸になっていたので、本当に難解な事件だった。そしてそれは全て明された訳でもない。


逃げ回っていた間どんな心持だったのだろう?
ひき逃げを起こし、逃げ回り、明日も素知らぬふりで会社に向かう「その人」はどんな気持ちで会社で仕事するのだろう。
不正に年金や生活保護を受け取っていた時「あの人」はどんな気持ちだったのだろう。


でも私が一方的に責める気にどうしてもなれないのは、私もいつか「そちら側」に行ってしまうのではないか?という恐れがあるからなのかもしれません。

でもやはり恐れはあっても「そんな人」にはどんな理由があってもなりたくない。

不正をしてまで儲けたくはない。
違法行為をしてまで生きたくはない。
他人様に迷惑をかけたくはない。

その気持ちだけは持たないと。

私ができる「国を守る」ということの最小単位の「心」だと思うからです。少なくとも私は親や教師からそう教わって来ているのですし…


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