07月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫09月

スポンサーサイト

--.--.-- (--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:--  |  スポンサー広告

パチンコ自分史 第二期

2016.05.27 (Fri)

こんばんは


今日は木曜日


先日の中学生のトラブルで再度お説教。

心が折れそうですが(苦笑)何とか収集。


やはり一人ですべてに対応するのは年を取るときついですね…


さて、今日はGW前に始まった短期企画「パチンコ自分史 第二期」です。

時期的には「就職、退職、フリーター、塾講師新米時代89年~94年」にあたります。

ちょっと長いので前半だけ。


後半に続きます

More・・・

平成元年の1989年に大学を卒業し(あまりにさぼっていたので、卒業時ドタバタがありましたが、何とかゼミの先生の御威光で卒業できました)、すでに就職が決まっていた某大手ファミレスに就職します。

基本二交代みたいなシフトで(配属されたのは24時間の店舗ではなかった)朝から夕方と、夕方から深夜までのどちらかで、休みは平日。年末年始休暇は当然なしでした。


それでも当時の私は接客業がとても好きでしたから文句はありませんでした。


それが急展開したきっかけは二つあります。

一つは当時の直属の上司(副店長)とのそりが合わず常に怒られていたこと。

職場だけなら問題ないんですが当時の寮がその人と同室でしたから、ず~~~~っと同じ空間にいるようなものでした。これがこたえました。


それでも休みの日にホールに行くことで気を紛らわせていました。当時行っていた店に入っていたのはドリームWやマーブルDX(今は無き奥村:涙)、レーザースペーシー(平和)、フィーバーレクサスやアバンテなどの車の名前シリーズ(三共)などでしたが、私が相当打っていたのはマルホンのレインボーでした。デジパチが多くなり始めた時期ですね。


正直この時期に打っていた機種に良い思い出がないのは職場での不満→退職が並行しているからかもしれませんし、デジパチをかなり打つようになり収支の上下が大きくなり、早い話負けが多かったからかもしれません。

当時行っていた店は結構大きな店で羽根モノも多く、大学生の最後辺りから行きつけにしていました。

秋口になり結局私は仕事を止めました。早い話が初めての就職に失敗したのです。

大学時代の数少ない友人は就職でほとんど東京、大阪に行っており、たまさか帰ってきても自分は就職に失敗しているので、劣等感からか酒を飲んでもいまいち盛り上がれませんでした。

そうはいっても仕事をしなければ食っていけず、今更実家に無心もできず、就職情報誌はしょっちゅう見ていましたが一度失敗しているのでどうしても前向きになれませんでした。(ちなみに当時はまだ就職情報誌にも正社員の求人がバンバン載っており、名前の知れた会社も数は少ないものの載っていました。)


そこで私は大学時代にバイトしていたファストフードでバイトをお願いしました。人手不足の折から歓迎されましたが、ただのフリーターには変わりなく、最低限の生活をするだけでした。


当時行っていた店はアパート近くの商店街の小さな店で、金があるときはフィーバーフラッシュ(連荘機)、またはスロットのスーパーセブン。金がない時は三共のエンタープライズばかり打ってました。

スーパーセブン 

特にスーパーセブンは打ちまくりまして、あのリールの滑り。

私が好きなスロットでもベスト3にはいつでも入ります。

裏ものではないのに結構連荘するし、かといって光物ではないので1ゲームごとに失望感もなく。


まあ打っていた店があんまり出る店ではないのでそんなに勝たなかったんですが…


この機種とエンタープライズを見るたびにあのフリーター時代のものがなしい記憶がよみがえります。


そしてその少し後1991年頃、就職情報誌である塾の求人を見つけます。

二月だったはずです。

それまで塾の講師になるということはバイトを除いて考えたこともなかったのですが、高校時代より学力は落ちていましたが家庭教師などで何とか最低限の学力はあったこともあります(とはいえ就職して一年間は受験生より勉強しました:笑)。バイトがファストフードだったので人前で声も出せたので思い切って腰を上げたのです。何よりフリーターという立場に相当疲れていました。

ただ、まさかそれから四半世紀後もやっているとは思いませんでしたけど。

この新米時代パチンコの量は一気に減ります。仕事が午後2時から11時あるいは午前様。それで帰って勉強。寝るのが朝方、という生活でしたから平日はパチンコに行けず、かつ塾は週休1日でしたが、その休みもバイトを続けていました(社長の許可を取って)。さらには送迎用でバスの運転をしないといけないのですが、私は免許を持っていなかったので教習所通いも重なりましたので。

ですから大学時代ほど頻繁にパチンコを打てなくなったのです。


この92~93年にかけてパチンコは大きく変わります。

まずはスロット。二号機から三号機へ変わりさらにはチェリーバーという4号機に突入します。ホールもそれまでの7枚一回交換(REGで続行)という形態から7枚無制限へと多くの店が移行します。

パチンコはCR機の出現(花満開が93年で、それ以前は全くでした)。

また羽根モノはサンダードラゴン、ニューモンローなどのいわゆる新要件機が出現。羽根モノなのに大量獲得が出来る時代になります。それまでの13個戻し(オール10や7&13も一応ありました)から15個戻しが出始め、ラウンドも8ラウンドから15ラウンドまで拡大。貯留がありますからフルで取りやすいので15個×10カウント×15ラウンド=2250個になり、羽根モノでありながら2000個前後が大当たり一回で出る時代になります。これは革命でもありましたが個人的にはこれが羽根モノ衰退の決定打になった気がします。

羽根モノの長所は当たりやすく出玉が少ないので少ない金額で遊べるはずでした。しかし新要件機により入賞率が下がってしまいます。つまり遊びにくくなるわけです。

さらにはこの翌年辺りに出てきたたぬ吉君などのようにラウンド振り分け+連荘性を持たせたことで羽根モノには致命的なダメージになったと考えます。

事実あれだけホールに多くの種類があった羽根モノは、これよりホールから一気に消えていきます。

また一発台もどんどん姿を消し連荘アレパチ、一発台モドキ(メドレー、やミサイルなど)へと変わっていき数年後完全に消えていきます。

権利モノは役物権利モノは姿を消しデジパチ型の権利モノが増えていきます。その分かれ目になったのはニューギンのカーニバル、三洋のニューヨークなどでしょうか。このあと権利モノでニューギンはミルキーバーなどでかなり売れたはずです。

昭和の末期に羽根モノの役割を果たしていたのは、いわゆる平台(チューリップメインの台)だった感じです。

デジパチは連荘機が大増殖。いわゆる保留玉連荘が主流でした。さらには1300発機のはずがアタッカー周りの釘をちょこちょこやることで脇のおまけチャッカ―に流れ2000~3000発を得られる機種が多かったのです。これが連荘するのですごいのひとことです。しかしやはり新要件になり10個×13個×10ラウンド=1300発から15個×10カウント×15ラウンド=2250個bになりましたが連荘は残りました。その中で代表格、というか革命機は平和の「麻雀物語」でしょう。すごくきれいな液晶でスムーズな動きとアニメーションの動き。すさまじい勢いで導入されました。そして翌年ライバル会社の三共から、あのドラムで有名な三共から「フィーバーパワフル」が出てきます。そのあたりがこの時期でした。


塾の仕事が安定し始め、車の免許を取ることで行動範囲が広がり、市内のパチンコ屋開拓をしまくるのはこの年辺りからですが、それはまた後日。


01:13  |  日記  |  Trackback(0)  |  Comment(2)

Comment

この頃のパチンコは今と比べられないぐらい面白かったですよね。

自分は一番パチンコが面白かった時期にパチンコを打てていたんだなぁと思います。


nob |  2016.05.28(土) 23:25 | URL |  【編集】

nobさんへ

>面白かった
そうですよねえ。
個人的に筐体に懲り初めてガラスが四角じゃなくなったあたりでダメになった気がします。
ほりまさ |  2016.05.31(火) 00:44 | URL |  【編集】

コメントを投稿する

Url
Comment
Pass  編集・削除するのに必要
Secret  管理者だけにコメントを表示  (非公開コメント投稿可能)
 

▲PageTop

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://inakajukublog.blog72.fc2.com/tb.php/2770-5d4789e1

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

この記事へのトラックバック

▲PageTop

 | HOME | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。